検索エンジンで検索語とキーワードを一対一にマッチングせずに、入力された検索語を柔軟に解釈して検索精度を向上させる検索手法。同一の事象で複数の言い方がある「表記のゆれ」を辞書機能を用いて解決する。今のところ、日本では大手検索エンジンは未だ実装していない。 例えば、「チェリー」という検索語を用いたとき、「チェリ−」(ハイフン)や「チェリィ」などのキーワードを持つホームページを表示することができる。そのほか、「日本語」・「にほんご」・「にっぽんご」・「ニッポンゴ」なども同一に見なすことになる。 為替の名で親しまれ、南米の中で最も美しい町の一つとして数えられる。 独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる小さな町だったが、サルミエント(Sarmiento)政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民がイタリア・スペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。かの有名なアルゼンチン・タンゴはこの街のボカ地区で育った。また、サッカーが盛んなことでも有名で、マラドーナが在籍したボカ・ジュニオルスやリーベル・プレートなど名門チームを数多く擁する。 外貨預金、スペイン王の命により新大陸の探検をしていた、ポルトガル人 航海者 フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラ・プラタ川に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族により殺害される。 1536年2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサ(Pedro de Mendoza)の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部のサン・テルモ地区に、ヌエストラ・セニョーラ・デル・ブエン・アイレ市(Ciudad de Nuestra Senora Santa Maria del Buen Ayre 直訳すると「良き空気の我々の聖母マリア市」) を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は1541年放棄され、生き残りはパラナ川を上ってアスンシオンを建設した。 1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、フアン・デ・ガライ率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー(La Trinidad)市として再建された。 IPOは当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった。 1776年にブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するために、ペルー副王領が分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。 しかし、貿易の完全自由化を求めるクリオーリョ達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた。ラ・プラタ副王は逃亡したが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達は以降スペインへの忠誠を揺らいでいくことになる。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。 1808年にナポレオン・ボナパルトの指導するフランス帝国がスペインに侵攻し、兄のジョゼフ・ボナパルトをホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。 株、五月革命が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。 1816年7月9日にはトゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都に定めたリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。 独立後はすぐに連邦同盟のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。 1821年、ベルナルディーノ・リバダビア州内務大臣としては辣腕を振るった。 1825年、ブラジル戦争の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。 リバダビアの失脚後、連邦派のマヌエル・ドレーゴが戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年のモンテビデオ条約でウルグアイの独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派のフアン・ラバージェによって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒したフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事となった。 1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らもガウチョより上手に馬を操ったといわれ、黒人や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。 しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサが、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。 ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦の憲法に制定して同年アルゼンチン連邦の成立を宣言したが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナに首都を置いた。 その後、連邦とブエノスアイレスの戦いが繰り返されたが、1862年11月に州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。 ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の多聞に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。 1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。 1871年に黄熱病が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。 1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。 また、この頃にカサ・ロサーダが大統領府になる。 この頃の自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。リアチュエロ川河口の港に面したラ・ボカ地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によってタンゴが発達した。 また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。 1911年にはスペイン語圏、及び南半球初の地下鉄(A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。 1920年代以降は内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)を築いた。 1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が治安維持のために「汚い戦争」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ10,000人と見積もられている。 1992年5月17日、イスラエル大使館がイスラムテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。メネム大統領(たまたまアラブ系である)はこの事件を非難した。 近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり(ボカが負けると危険である)、マルビーナス戦争帰還兵がデモを行うことが多い。